雑記帳
徒然なるままに

「なぜの理由」
なぜ?
人間はどうして「なぜ」を問うんでしょう。
「どうして自分だけが・・」「なぜこんなことが・・」「どうしてそんなにしてまで・・」
ともかく「なぜ」と「どうして」で一生を過ごす人間。どうしてなんでしょう
なぜ人は「なぜ」の答え、つまり理由を欲しがるんでしょう。
それは人が、色々な意味で、「やむを得ない」からでしょう。
ちょっと横道にそれるようですが、昔、刑罰の方法の1つとして実際にあったそうですが、
ただ、穴を深く掘らされ、それが終わると、それを埋め戻す。
そしてまた、その穴を掘る。ということを繰り返すそうです。これは、重労働の懲役刑よりもこたえるそうです。
まったく目的の無い、意味のないことを強いられるほど、大きな苦痛はない。
「イミ わかんない」ことは、ただそれだけで人を不快にする。これが人間の「ヤムを得ない」性(さが)です。
結局それは、人は「納得」と「是認」を必要とする生き物だということなのでしょう。
さて、人は死を意識する時,初めて、生命を見つめるのではないでしょうか。
また、人は自分を見つめるとき,初めて、神に向かうようになるのではないでしょうか。
どうしてなんでしょう。
それは多分そんな時、「始まり」とか、「終わり」とか、「究極」とか、「源」とか「ルーツ」とかを考えるからなんでしょう。
結局、私たちには常に、自分の,そして物事の「終わり」については,はっきりと分かるんだけど、「始まり」はよく分からないんです。
気がついた時は、すでに自分はいるのです。
今や、人類の滅亡さえ現実的に予期できても、始まりとなると、沈黙してしまうのです。
それでも「終わり」を思うとき、初めてその分からない「始まり」を考え始めるんです。
言い換えれば、限界に行き当たった時の「なぜ」が、新たな思考の回路を開くんです。
「1人の人からすべての国の人を作って地の全面に住まわせ、また、定められた時と人々の居住のための一定の限界とをお定めになりました。人々が神を求めるためであり、それは彼らが神を模索してほんとうに見いだすならばのことですが、実際のところ神は、私たち一人一人から遠く離れておられるわけではありません。」
-使徒17:26,27