世の「終わり」は「終結」ではなく「完成」であるという根拠


マタイ 24:3 の「あなたの来られる時や世の終わりには、どんな前兆があるのでしょうか」という質問の「終わり」とは厳密にどのタイミングのことでしょうか。

結論から先に述べますと、(書かれているまんまですが)世の「終わり」=「あなたの来られる時」つまりキリストの再臨時と言えます。

ですから「終わりはまだ」とか「それから終わりが来る」という描写の「終わり」は「再臨時」と置き換えて読んでも間違いではないということです。


この点を別の角度から更に確証したいと思います。


先に引用したマタイ 24:3 の「終わり」はギリシャ語の「スンテレイアス [suntele…aj]

という語の訳ですが、この語は厳密には「終結」ではなく「完成」という意味の語です。


「スンテレイア」は「スン[sÚn] 」という前置詞と「テレオー単語であり、

[telšw]

」という語からなる

「スン」《with= [closely identified together]》(直訳 : 密接に一緒に識別される)

「テレオー」《complete, consummate》(完成、成し遂げる、極点に達せしめる)


「テレオー」の用例 :

「あなたがたは決してイスラエルの町々を巡り尽くせ (teleó) ないからです。」マタイ

10:23

「彼らは主の律法による定めをすべて果たした (teleo) ので」ルカ 2:39

「それが成し遂げられる (teleo) までは」ルカ 12:50

「イエスは、すべてのことが完了した (teleo) のを知って、聖書が成就するために「わたしは渇く」と言われた」ヨハネ 19:28

「わたしの力は、弱さのうちに完全に現われる (teleo) からである」Ⅱコリント 12:9

「神の激しい怒りはここに窮まる (teleo) のである」黙示 15:1

「みことばの成就する (teleo) ときまで」黙示 17:17


(24:3 のスンテレシアスの後に出てくる 3 箇所の「終わり ( 最後 )」(24:6,13,14) はいずれも「テロス」という語が用いられており、この語はもっぱら終結(End) という意味で使われていますが、適正な意味としてはやはり「全ての結果(最終目標、目的)を持って終わるような完成」を意味しているとされています。)

それで「スンテレイア」は密接に合わせて完成するというニュアンスを持ち、それは、単に時の終わりとか、出来事の最後、ではなくすべてのパーツをまとめて集めた結果としての「集大成」という完成を意味します。

「スンテレイア」が端的に表現されている、「収穫とはこの世の終わりのことです」( マタイ 13:39)というのを例にとって見ますと、収穫が行われるのはキリストの臨在時であり、それは天に、王また祭司を招いて千年間、地を治めさせることが開始される時です。

しかしここでは収穫は「いつなのか」ではなく、収穫=スンテレイア つまり収穫は「世の完成」であると言われていることからもわかります。


それで「世の終わり」とは、現世が神の国に交代するまでに神が目論まれたこと あるいは患難期を含む、サタンに許された出来事が残らず全て出尽くして完成するという意味と捉えて良いでしょう。


ですから、キリストが再臨されて初めてスンテレイア(世の(時代の)完成がなされるわけで、完成に「一定の期間(年数)」があるわけではありません。言うまでもありませんが、どれほど近づいていたとしても、それまでは未完成です。


「世の終わりのしるし(前兆)には何がありますか」という質問は「完成」が近いしるしには何がありますか」という意味です。


さて、聖書の日本語訳の中に「終わりの時(日)」という語句が出てきますが、これは、今ここで述べている「終わり」=「再臨」とは異なるタイミングのものです。

ほとんどすべての、終末に関する文献や記述の中で混同して用いられている「世の終わり」と「終わりの日」は全く別の期間もしくは時点であることを理解する必要があります。


特に間違いや混乱が生じているのは、(終わりの)前兆が見られる期間と「終わりの時(日)」という描写の混同です。


後ほど詳述しますが「世の終わりの前兆」とはすなわち7年間の患難期のことであり、「終わりの日」というのは、その患難期が始まる前の時代のことです。

予めこれを踏まえた上で、これらのことを解説してゆくことにしましょう。


「人の子が夜の盗人のように来る」とは?

先に、「終わり」=キリストの臨在時だと述べましたが、では、「人の子が来る」と表現されてい部分も「臨在時」と同一のタイミングと捉えるべきなのでしょうか。


人の子は「思いがけない日の思わぬ時間に帰って来る」(マタイ 24:44,50)

「その日、その時がいつであるかは、天の御使いたちも子も知らず、ただ父だけが知っておられる」(マタイ 24:36)

ゆえに用心していなさいと警告されている「あなた方」に対して「いちじくの木のたとえ」を話されたときは「人の子が戸口まで近づいていると知る」ことになるとも述べておられます。

これらを総合すると、日時はわからないが、戸口に近づいていることは分かるということです。

これが無頓着な一般市民と目覚めて見張っているクリスチャンとの違いでしょうか。ではクリスチャンはキリストが戸口に近づいたことを「いつ」知るのでしょうか。

「これらのことのすべてを見た」時です。つまり厳密に言えば、臨在直前までの一連の出来事をすべて見終えた時です。

しかしもちろん、全てを見終えた瞬間、いきなり分かるというということではなく、当然のことながら、前兆とされる初期の出来事から進展してゆく物事を通して次第に確信が深まってゆくという知り方になると思います。


では、見張っていたクリスチャンではない人で多少なりとも終末に関する知識に通じていた人々はどうでしょうか。彼らにとって人のこの到来はまったく不意をつくものになるので しょうか。

彼らも「これらのことのすべてを見る」ことになります。その最終的な経験は、7年間の患難の直後、「太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は天から落ち、天の万象は揺り動かされる」

(マタイ 24,31)という事象が起きていることを体験するときです。


(※ 文字通りの天空にも視覚的に異様なものを感じさせる出来事があるかもしれませんが、おそらくこの描写の意味するところは、全地で無政府状態のようになることを示唆しているのだろうと私は考えております。)


そして「そのとき、人の子のしるしが天に現れます。」と記されています。

この天に見られる異常な出来事がどれくらいの期間なのかは分かりませんが、おそらく、ごく短期間であろうと思われます。

大患難は地上の誰でも認知するでしょうし、聖書の知識のない人も、現に生じていることは

「聖書預言の成就」だということを聞き及ぶようになるはずです。

そうであるなら、「悪いしもべ」(自称クリスチャン)ですら、ある程度予期できるはずだと思えます。

この期に及んで、多少なりとも聖書預言を知っているはずの彼らが『「主人はまだまだ帰るまい』と心の中で思い、その仲間を打ちたたき、酒飲みたちと飲んだり食べたりし始め、主人から厳しく罰せられ、泣いて歯ぎしりすることになる」と言うのは非常に考えにくく思えます。

ここは一つ、見せかけだけでも、「忠実な賢いしもべ」らしく振る舞っておこうと考えるのではないかと思えます。


ここで、若干の疑問が出てきます。


つまり、すでに患難を経験した後、多少の知識のある人々であればそれに続く再臨のときに、

「油断して不意を付かれる」あるいは「盗人に入られる」ような無頓着は人はそうそういないように思えます。


ですから、24:37 以降の「人の子が来るのは、ちょうど、ノアの日のようだからです。」から始まる記述にある「人の子が来る」という表現は臨在時そのものというより 、「ノアの日( the days of Noah)」になぞらえられているように一定の期間を指し示しているといえるでしょう。


キリストの臨在の直前はともかく患難の後で、太陽や月に異変があると描写されているときですからそんな時に「飲んだり、食べたり」はともかく、「めとったり、とついだりしている」という普通の生活に没頭していると考えるのは無理があります。


それで「人の子が来る」という表現は、30 節の「そのとき、人の子のしるしが天に現れます」という時とは別のときで、「人の子が来ることになっているその時期は、ちょうどノアの日 の時代に似たような期間」となることを悟りなさい。ということなのでしょう。


大雑把に区分けしますと、24:6 の「しかし、終わりが来たのではありません。」までが、患難前の時代(終わりの日)

そして 24:7 の「民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり・・産みの苦しみの初め・・死体のある所には、はげたかが集まる」という 24:28 までが患難期。

そして 24:29 の「天の万象は揺り動かされる」短いときを経て、24:30 の「そのとき、人の子のしるしが天に現れます」で、再臨=「世の終わり」

24:32 の「いちじくの木から、たとえを学びなさい・・人の子が戸口まで近づいていると 知る」とあるように、これらは患難期全体が「前兆」になっていることを示しておられます。

つまり(70週の最後の1週=7年間)こそが、その前兆(しるし)そのものだということです。


これらのことをすべて総合して考えますと、24:36 の「その日、その時がいつであるかは、だれも知りません」という「その日」とは「終わり(スンテレイア)=再臨時」のことでは なく「これらすべてのこと」が起き始める日のことであり、すなわち「患難期」の到来がいつなのか誰も知らないということでしょう。

そして 24:37 以降で、その患難期に相当する「洪水が来てすべての物をさらってしまうまで、彼らはわからなかったのです。人の子が来るのも、そのとおりです。」とあるように、それは 24:6までと同じ患難期前の「終わりの日(時代)」に言及したものと言えます。


では改めて「終わりの日」と示される表現と、それはいつのことなのかを考えましょう。


「終わりの日に、あざける者どもがやって来てあざけり、自分たちの欲望に従って生活し、次のように言うでしょう。「キリストの来臨の約束はどこにあるのか。父祖たちが眠った時からこのかた、何事も創造の初めからのままではないか。」Ⅱペテロ 3:3,4


ここで「終わりの日に」と訳されている原語は「ギ語:エスカテー ヘメラー(Last of the days)」で、最終分の日々という意味です。

これはいわゆる「終わりはまだ」と言われている、「終わりのしるし」の範疇に入らない、それ以前の人々の傾向を示したものです。

そしてそれは、次の、Ⅱテモテ 1:1-7 で示されているのと同じ期間といえるでしょう

「終わりの日「ギ語:エスカテー ヘメラー」には困難な時代がやって来ることをよく承知しておきなさい。

そのときに人々は、自分を愛する者、金を愛する者、大言壮語する者、不遜な者、神をけがす者、両親に従わない者、感謝することを知らない者、汚れた者になり、情け知らずの者、和解しない者、そしる者、節制のない者、粗暴な者、善を好まない者になり、裏切る者、向こう見ずな者、慢心する者、神よりも快楽を愛する者になり、見えるところは敬虔であっても、その実を否定する者になるからです。こういう人々を避けなさい。こういう人々の中には、家々に入り込み、愚かな女たちをたぶらかしている者がいます。その女たちは、さまざまの情欲に引き回されて罪に罪を重ね、いつも学んではいるが、いつになっても真理を知ることのできない者たちです。」


現代は、こうした預言が成就している時期に入っているといって間違いないと思います。

それで「人の子が来るのは」「盗人のように」「思いがけない時に」という表現の厳密なタイミングは、「天の雲に乗って」現れる再臨時というより、そうした雰囲気のまったくない、殆どの人が、あるいはクリスチャンを自称する人でさえ、予想もしていない、気にも留めていないタイミングを指して語られているに違いありません。


これは、前述した「嘲るものたち」が「キリストの来臨の約束はどこにあるのか」とあざけっていられる時であり、霊性、道徳性、人間性が失われる「終わりの日」の時期に相当すると言って良いでしょう。


(※ 新改訳のマタイ 24:14 では「・・それから、終わりの日が来ます。」と訳していますが、これは翻訳者の勝手な挿入で、原語では「それから「終わり(ギ語:【テロス】)」が来る」と記されていて、「日」という語など存在しません。)


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サタン放逐で開始 7年間

事後処理



難期


千年王国→

終わりの日


おそらく現代はこの辺り?


終わり(再臨時)

カーソルで示されるような時間の長さのない時点


終わりのしるし(前兆)が見られる期間