「神の怒り」の表明の真の目的と成し遂げられる事柄 - Part 3/3


この記事は、「3 分割」された

「135 神の怒り」の表明の真の目的と成し遂げられる事柄」の続きの部分です。 先に上の記事をお読み下さい。


この結論に反論を唱える人も少なく無いだろうと思います。


実際「神の怒り」に関して、多くのサイトを訪れ、調べましたが、今まで知る限りでは、どの長老、牧師、研究者と思しきの方々の例外なく、ほとんど、どの教派も、基本的に はすべての人間は「神の怒り」を受けている状態にあり、教会の一員(クリスチャン) にならなければ神により滅ぼされると捉えられているようです。


もしこれが否定されるような聖書的根拠があるなら、彼らの知識や信仰の根本が揺さぶ られることになるでしょうから、強い反論が予測されますので、この記事を書くに先立って、「怒り」という語句のある聖句を文字通り全部ピックアップして、つぶさに調べましたので、今少し、反証として参照されると思われる幾つかの聖句を考慮することにします。


□エペソ 2:3

「あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。

私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。」- エペソ 2:3


生まれながらに、神の怒りを受ける「べき」立場にあった人類一般に対して、それ故に神は怒りを表明された(あるいはこれから表明される)のでしょうか。

クリスチャンにならなかった人々は、キリストを認めなかったという罪に対して神は怒り、それを表明されるのでしょうか。

それとも、クリスチャンにならなかった故に、結果としてキリストの贖いの適用から外れたゆえに、アダム由来の生まれながら持っている罪に対して怒り、それを表明されるのでしょうか。


アダムの子孫である人類は罪を受け継いでいますので、「生まれながら御怒りを受けるべき子ら」と言うのは確かです。

しかし聖句はその怒りを受ける「べき」だが、実際に受けたのは、「怒り」ではなく「恵みや慈愛」であると示しています。


「しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、

罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、―あなたがたが救われのは、ただ恵みによるのですキリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。

それは、あとに来る世々において、このすぐれて豊かな御恵みを、キリスト・イエスにおいて私たちに賜る慈愛によって明らかにお示しになるためでした。」- エペソ 2:4-7


み怒りを受ける「べき」ものに対して、怒りを表すどころか、救いの手立てを差し伸べられました。


「生まれながらの罪」そしてその罪のゆえに「この世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って歩み、不従順の子らの中に

あって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行っていた。」ということです。


そしてこれらが、すなわち「神からのみ怒りをうける「べき」理由であると示されています。少なくとも私は、世の支配者であり不従順の子らというサタン、悪霊から生じる、世間 の常識、欲望、誘惑に晒されている状況は不可抗力的な要素もあり、情状酌量の余地が あると思いますので、それゆえにこそ、(法的には不興を受けるべき立場であった)人類に神は哀れみを示されたということでしょう。


結局、どうなのでしょうか。「べき」という規定は神ご自身によって保留とされ、神の行いと言葉と約束と目的によって、生まれながらの罪ゆえの怒りは実際には表明されることはない。と断言できると思います。


ともかく、ここから分かるのは、神のみ怒りは、生まれながらに持つアダムゆえの罪に対しては表明されないということです。


□エペソ 5:5-6

「あなたがたがよく見て知っているとおり、不品行な者や、汚れた者や、むさぼる者―これが偶像礼拝者です、―こういう人はだれも、キリストと神との御国を相続することができません。

むなしいことばに、だまされてはいけません。こういう行いのゆえに、神の怒りは不従順な子らに下るのです。」- エペソ 5:5-6


パルロが「生まれながらの罪」のゆえにではなく、明らかに「神の怒り」は「こういう行いのゆえに下る」。ときっぱりパウロが断言しているのは、個々の人の特定の意識的な行動に対する怒りだということです。次の聖句もまったく同様です。

「ですから、地上のからだの諸部分、すなわち、不品行、汚れ、情欲、悪い欲、そしてむさぼりを殺してしまいなさい。このむさぼりが、そのまま偶像礼拝なのです。

このようなことのために、神の怒りが下るのです。」- コロサイ 3:5,6

この論議はローマ 9 章でも同様です。


「ですが、もし神が、怒りを示してご自分の力を知らせようと望んでおられるのに、その滅ぼされるべき怒りの器を、豊かな寛容をもって忍耐してくださったとしたら、どうでしょうか。

それも、神が栄光のためにあらかじめ用意しておられたあわれみの器に対して、その豊かな栄光を知らせてくださるためになのです。

神は、このあわれみの器として、私たちを、ユダヤ人の中からだけでなく、異邦人の中からも召してくださったのです。

それは、ホセアの書でも言っておられるとおりです。

「わたしは、わが民でない者をわが民と呼び、愛さなかった者を愛する者と呼ぶ。

『あなたがたは、わたしの民ではない』と、わたしが言ったその場所で、彼らは、生ける神の子どもと呼ばれる。」ローマ 9:22-26


神は「怒りを示してご自分の力を知らせようと望んでおられる」にも関わらず、滅ぼさ れて然るべき、神の怒りを自らの内に満たしている「器」を忍耐され、むしろ「愛するもの」と呼ばれるということです。


□ヨハネ 3:36

「御子を信じる者は永遠のいのちを持つが、御子に聞き従わない者は、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。」- ヨハネ 3:36


聞き従わない者 ] とありますが、これは「聞き従う」と言う意味の語の否定形ではなく、原語のギ語:「アピセオー」が用いられています。意味としては、反駁する 反抗する、不道徳、拒否するとされています。

この語の語根である「ピソー」は「説得する、促す」という意味の語です。

それで、「聞き従わない」と言うのは、単に(クリスチャンではないので)意に介そうとしない、無関心、無視と言うより、意識的に「反抗する」字義的には「説得を拒否する」という意味を持つようです。


□ヨハネ 3:16-18

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである」- ヨハネ 3:16-18


「神のひとり子の御名を信じなかった」と言うのは、「イエス」つまり[イエシュア(エホシュア)意味 : ヤハウェは救い]ということを信じなかった。あるいはキリスト(油

注がれたもの)として神の救いの手だてであることを信じなかった。というようなことでしょう。


文脈を見る限り「滅び」と「永遠の命」が対比され、「裁き」と「救い」が対比されています。それゆえ、み子を信じないものは「滅び」に定められたものとしてすでに裁かれている。という論説が一般的なようですが、本当にこの聖句はそのように主張しているのでしょ うか。


3:18 の「さばかれている」と訳されているギリシャ語は「クリーノ」という語で「判断、決定、よしとする、適切に、分離する」などの意味であるとされています。


端的に表現すると 16 節は、神がひとり子を与えられたその目的は、そのみ子を信じる者が、滅びることなく救われるため。

  1. 節、その目的は世を裁くためではなく救うため。

  2. 節、み子を信じる者は、判定 / 分離されない。つまりニュートラルな状態に置かれる。信じない者はすでに判定 / 分離されている。 ということです。


つまり、み子を信じる者は、救われたとも、永遠の命が確定的になったというニュアンスはどこにもありません。そこに描かれているのは「そう目論まれてキリストを備えられた」ということに過ぎません。

また、信じない者が何に、どのようなものとして判定 / 分離されたかを伝えていません。少なくとも、滅びと判定されたと断定できる根拠はこの聖句からは見出されません。


そもそも、どの時点で「すでに」なのでしょうか。何らかの機会に福音が伝えられた時?死ぬまで、ずっと信じなかった? キリストについて初めて聞いて1ヶ月後に死んだ人は、み名を信じるまでにいかなかったので、すでに裁かれている? その伝えられた音信は本当に正確だった? 教派 / 分派の数は3万とも5万とも言われているキリスト教世界から、どれほど確かな信仰を築く情報が与えられるのか甚だ疑問です。

「入ろうと努力している(キリストを信じた人に他ならない)のに入れない人の方が多い」世界から伝えられたある音信を聞いて、本気で信じる気にならなかった人は、すでに裁かれている?


こうした現実的な問題点を挙げてゆけば際限なく出てきます。

この極めて端的な表現は、あらゆる歴史、現実の人類社会に適合させて適用できる実践 的なルールというより、いわば比喩的なもので、この文脈で最も重要なのは、世を「救う」ための手だてとしてのキリストに焦点を合わせるということでしょう。


事実、「信じる者は裁かれない」と言うのは基本原則的な事柄で、現実はそれとは異なることが、パウロの書簡など、多くのところで示されています。

□ ローマ 2:5

「ところが、あなたは、かたくなさと悔い改めのない心のゆえに、御怒りの日、すなわち、神の正しいさばきの現れる日の御怒りを自分のために積み上げているのです。」

- ローマ 2:5


パウロが「御怒りを自分のために積み上げている」とする「あなたは」とは、誰、どんな人でしょうか。

「他人をさばくあなたが、それと同じことを行っている」からだと 2:1 で述べていますが、その具体的な内容は前章に列挙されています。


「あらゆる不義と悪とむさぼりと悪意とに満ちた者、ねたみと殺意と争いと欺きと悪だくみとでいっぱいになった者、陰口を言う者、そしる者、神を憎む者、人を人と思わぬ者、高ぶる者、大言壮語する者、悪事をたくらむ者、親に逆らう者、わきまえのない者、約 束を破る者、情け知らずの者、慈愛のない者です。」1:29-31


こうした人々だからこそ、神の「御怒りを自分のために積み上げている」と言われています。まさしく、人間性の問題であり、結局のところ、ユダヤ人であろうが、クリスチャンであろうが、個々の「人となり」が個別に問われるのだと、力説しているのです。

続く 2:6-14 を読むとそのことがよく分かります。


「 神は、ひとりひとりに、その人の行いに従って報いをお与えになります。

…党派心を持ち、真理に従わないで不義に従う者には、怒りと憤りを下されるのです。患難と苦悩とは、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、悪を行うすべての者の上に下り、

…神にはえこひいきなどはないからです。

律法なしに罪を犯した者はすべて、律法なしに滅び、律法の下にあって罪を犯した者はすべて、律法によってさばかれます。」(ローマ 2:6-14)


それで、信仰にあるとか律法のもとにあるとか、全くそういう問題ではなく、個人的な悪徳ゆえに裁かれるといことです。

では、「み子を信じた」人々の優位性は何でしょうか?


「しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。

ですから、今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが、彼によって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。

もし敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させられたのなら、和解させられた私たちが、彼のいのちによって救いにあずかるのは、なおさらのことです。」

- ローマ 5:8-10

クリスチャンとして、「義と認められた私たちが、彼によって神の怒りから救われるのは、なおさらのこと」であるにも関わらず、先のパウロの糾弾の言葉「あなたは、かたくな さと悔い改めのない心のゆえに、御怒りの日、すなわち、神の正しいさばきの現れる日 の御怒りを自分のために積み上げている」と言われたのはローマにいたクリスチャンた ちのことでした。


今日でもクリスチャンを自認する、あるいは「献身して是認されたゆえに自分は「救われる教会の一員」となったと思っているかも知れない人々の中にも「かたくなさと悔い改めのない心のゆえに、御怒りの日、すなわち、神の正しいさばきの現れる日の御怒りを自分のために積み上げている」人々が少なくないかもしれません。


ほとんどの「患難前携挙説」を解く人々は、何故か「患難前に教会が空中に引き上げられる」と異口同音に述べるようですが、「教会」という単位で救いがあると言うことを保証する言葉は聖書中にありません。

全ては、「個々、ひとりひとり」裁かれるというのが一貫して聖書が述べているところです。


どうもこの「教会の患難前携挙」というフレーズは、特定の教派によって、単に信者獲得 ならびにそれに伴う 寄付金倍増計画のための宣伝文句として利用されているような気がしてなりません。


いずれのしても、「裁き」は常時行われているものでもなく、個々の人々の入信や破門

/ 排斥 / 除名などの時点にも一切関係なく、ただ「主の日]において、非信者もユダヤ人もクリスチャンも含め、全人類が、主の前に立つということです。

それまでに、生を終えた人々は、第一の復活、また千年後の「残りの死人の復活」という機会に裁かれることになります。


「神のみ怒り」を満たした「7つの鉢」が注がれる目的は、刑執行ではなく、「悔い改めの勧告」とういう趣旨で行われます。

「鉢」の注ぎが終わった後、それでも神と戦う者だけがキリスト口から出る剣によって断裁されます。