雑記帳

徒然なるままに

放す離す話す

   「良かったら話してみませんか」

言葉の語源なんですが、「話す」「放す」「離す」の語源は同じだというのを発見しました。
 このよく知っている意味の違う言葉が 昔は同じだったというのは驚きです。
 まるで、昔から良く知っている友人が、実は生き別れた双子の兄弟だったということが、 いきなり分かったときのような驚きです。 たとえが分かりにくいですか?
「話す」というのは言葉を「放つ」、というところから来ています。
古語辞典の中の 「放つ」 という項目に「話す」という意味あいがあることが示されています。

  ◇ことばをはなつ」の形で、思いのままに言う。放言をする。
  ◇ことばをはなちて申しけるに

それで、「話す」ということは考えや心のうちを言葉にして解放する。そんな意味合いがあります。

「良かったら話してみてください」「さあ話してごらん」と言われたなら、このことを思い出して 「よかったら放してみてください 「さあ、離してごらん」という意味で受け取ってみてください。

そして、「話す」ことによって、もしかしたら偏っていたり、固執しているかもしれない 自分の考え方から自分自身を切り離す効果もあるかもしれません。
ところで、ちゃんと聞いてくれる、あるいは、受け止めてくれる人がいると話しやすいものです。 離すときも同じで、誰かがしっかりと捕まえてくれていると両手を離せるものです。

たとえば、こんな場面を思い描いて見てください。 台風の時にちょっと足を踏み外して川の濁流に飲み込まれてしまったんです。 溺れかかっているとき、幸いにも小さな岩を見つけて、それにつかまることができました。 自分にできることはそれだけでしたが、おかげで流されることも、それ以上沈むこともなく助かりました。
そして、その後、待望の救援隊がやって来て、救いの手を差し伸べる。・・感動的な場面ですね。
ここまでだと、めでたしめでたしの話のようですが、ところがこの後、一見考えられないようなことが起こるのです。 その救援隊の人の手を掴みますが、その人は躊躇して、岩にしがみついたままのその左手を離そうとしないのです。
なぜなら、ともかくもこの岩はこれまで自分を支えてくれていた実績があるのです。当たり前の話ですが、助かるためにはその左手を離さなければならないのです。 しかも、濁流はますます激しくなり、一刻を争う事態であるにも関わらずです。 助かりたいと右手を伸ばす一方で、その自分の救いを妨げているのは、他ならぬ自分を自分で守ろうとしているその左手なのです。 信頼する気持ちが大切だということが分かります。

「さあ、話してごらん」と言われたとき、 「だいじょうぶ、こうしてちゃんと捕まえているから、ゆっくりでいいから、その左手を離してごらん」と 言われているものと受け止めて、信頼して心を解放してみるといいかもしれません。

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