「これからは誰もわたしを煩わせてはなりません」(ガラテア6:17)

 
   ー心ない人に煩わされている、全てのエホバの証人の方々へー

時計とかドレス,バックとか,とにかく大抵どんな物にも有名ブランドというものがあります。
では人間はどうでしょうか。人間のブランドはどこですか。
それは他ならぬ創造者なる神、エホバではないでしょうか。

「神は言われた,「わたしたちの像に,わたしたちと似た様に人を造り…」(創世記 1:26)

それで、クリスチャンの目標としてだけでなく、元々エホバに造られた全ての人間は,イエス・キリストをモデルとして造られているという風にも言えるかも知れません。
人は生まれた時に「人」として完成しているわけではありません。自分で自分自身を形作ってゆかねばなりません。

では,モデルとなっているイエスがどんな方だったか今一度考えてみましょう。
「彼は神の栄光の反映,またその存在そのものの厳密な描出であり,…」(ヘブライ 1:3)

栄光の反映 Refrection  反射,生き写し,面影を伝えるもの
厳密な描出 Exact representation 正確な,寸分違わぬ,そのまま


それゆえに確かにイエスは,「わたしを見た者は父をも見た」と言い得ました。
クリスチャンはキリストに似たものであることを目指すゆえに,キリストの厳密な描出,キリストの栄光の反映となるべきではないでしょうか。

「ブランド」には,品種,銘柄,商標といった意味がありますが,見た目には似たような物でも安物もあります。
さらには 偽 ブランド品というものもあります。
例えば 「ハンドバッグ ¥980」もあれば グッチとかニナリッチとかだと10万とか20万というのもざらにあるそうですが,どういう違いがあるのか,身近にいる主婦の方々に尋ねてみました。
「やっぱり安物はすぐメッキが剥がれたり,壊れる。」
「ブランド品は,名前の名誉がかかってるから,商品に抜かりがないし,確かに持ちがいい。」
「高いけど,良い仕上がりに気を配るという姿勢がうかがえる。」
「何しろ,1本のタオルが10年も持ちましたからねえ,安物のタオルとは,くたびれ方が違う。」
とまあ こんな具合に,すらすらと,熱っぽく語ってくれました。

良い仕上がりに気を配る,すぐに壊れたりしない,持ちが良くて決して簡単にくたびれたりしない。
自分自身をそういうクリスチャンとして形作ってこられたでしょうか。

パウロはそのようなエホバブランドを持っていると自ら書いています。
「これからは誰もわたしを煩わせてはなりません。わたしはイエスの奴隷としての焼き印を自分の体に負っているのです。」(ガラテア6:17)
英語版ではこうなっています。
” I am caring on my body the brand marks of a slave of Jesus.”
ここに[Brand marks]という語が使われています。
    ブランド Brand :  品種 銘柄 商標 焼き印 烙印

もともと、「ブランド」とはその所有者を明らかにするために、家畜のお尻などに押した焼き印の事です。そして革製の商品にも「メーカーの銘柄や商標」として押され「品質保証」の意味あいも生まれました。
(パウロが「焼き印」と表現しているのは、クリスチャンとして迫害された時に受けた傷跡だったかも知れません)
あなたもイエスの奴隷としての焼き印(ブランド)を持っておられますか。
文字どおりのムチ打たれた傷跡はないとしても,あなたがクリスチャンであろうとしたゆえに経験してきた辛い経験があるかも知れません。
そうしたことを堪え忍んできたのなら,紛れもなくあなたにもイエスの奴隷としてのその焼き印があると言えます。
ではあなたご自身は,自分のそのいわば焼き印を,どうみなしていますか。

さて,もう一度 ガラテア6:17の前半に注目しますと「これからは誰もわたしを煩わせてはなりません」と述べています。  パウロはなぜそう述べたのしょうか
わたしを、重要人物として、もっと丁重に扱いなさい!と言っていたのではありません。
しかし,世にあってキリストと同じ試練を担っている者の1人だという認識を持って自分を扱って欲しいと願ったのでしょう。
それゆえ,すべての人はイエスブランドのパウロを,そのブランド名ゆえに丁寧に扱うべきでした。
クリスチャンの所有者、ブランドメーカーはイエス・キリストですから、もしクリスチャンを(兄弟のうち最も小さな者でさえ)不必要に煩わせるなら,それはその所有者を侮り、キリストの贖いの価値,その代価の高さを見くびることになるということです。

同様に,あなたご自身も、自分には,ブランドの焼き印があり,キリストの血という、はるかに高い代価を神が支払ってあなたを買い取って下さったゆえに,正にそこにそうしてクリスチャンとしているのだということを正しく認識しておられるでしょうか?
 またあなたの仲間の、あなたに対する接し方,扱い方如何によって,それらの人が本当にキリストに敬意を払っている本物のクリスチャンか、偽クリスチャン(偽ブランド品)かを見分けるしるしともなります。
(実際にパウロを煩わしていたのは、「しかるべき立場にある」人々でした。)
それで,キリストのゆえに,誰かがあなたを,安っぽいの品物のように扱うのを許してはなりません。
「これからは誰もわたしを煩わせてはなりません」というのはパウロだけの特権ではありません。
あなたにも、このように言う正当な理由があるのです。

ところで、エジプトのファラオはまさにこの認識に欠けていました。
ヨセフの時代のファラオはエホバの名のゆえにイスラエルを丁重に扱いました。
しかしモーセの時代のファラオの態度はこういうものでした。

「エホバが何者だと言うので,わたしはその声に従ってイスラエルを去らせなければならないのか,わたしはエホバなど知らない,ましてイスラエルを去らせるようなことはしない」(出エジプト5:2 )

それであなたを軽々しく,あるいは,手厳しく扱う者がだれであったとしても,その人はファラオと同じ人種で、「わたしはキリストなど知らない。どうしてあなたを丁寧に扱わなければならないのか」と言っていることになります。
自分が不完全で罪深い事を認識し、道理をわきまえた謙遜なものである事を自認することと、キリストの貴い値を持って神が買い取られた自分の価値をそのように正しく認識すべき事に明確な区別が付いているべきではないでしょうか。

言い換えれば、クリスチャンは「奴隷」であり、時には「だまし取られる」こと、「右の頬を打たれたら左も」という感性を身につけているべきではありますが、「尊厳」は断固守らねばならないということです。
自分が神の形に作られていること,そのようにデザインされた者であることを忘れないで下さい。
「エホバの働きはまさしく尊厳と光輝である」(詩編111:3)
  尊厳 Dignity  威厳,品位
  光輝 輝き,すばらしさ

これは、神ご自身の事ではなく、その「働き」についての描写です。「あなた」という存在はその「エホバの働き」の一部なのです。
神は、人に、この「尊厳と光輝を身に着けなさい」と諭しておられます。

「ご覧ください,私は取るに足りない者となりました。あなたに何と返答致しましょう。]
「そこでエホバは風あらしの中からヨブに答えて言われた,
「どうか優越性と気高さで身を美しく装うように。尊厳と光輝を身に着けよ。
あなたの怒りが激しくほとばしり出るように。すべてごう慢な者を見て,これを低くせよ。
すべてごう慢な者を見て,これを卑しめ,邪悪な人々をその場で踏みにじれ。
彼らを共々に塵の中に隠し,彼らの顔を隠れた所につなぎ留めよ。
そうすれば,わたしもまた,あなたをほめよう。あなたの右の手はあなたを救うことができるからだ。」(ヨブ40:10-14)

この言葉が語られたいきさつには、サタンの「働き」が関わっていました。
「この世の神」であるサタンが支配するこの世にあって、じつに様々な「サタン的」な働きがありますが、これこそが最もサタン的というのはどういうものだと、あなたは思いますか。

サタンは人間の尊厳を低め,自尊心を傷つけ,自信を亡くさせようとしてきました。
人々に,自分は愛されておらず,無価値な者であると信じ込ませようとしてきました。

サタンの働きは、エホバの働きと正反対のもの,つまり「人間の尊厳を踏みにじることと人の光輝を汚すこと」です。
サタンがヨブにした仕打ちを思い起こしてみて下さい。
ひどい苦痛に加え,ヨブの忠誠を攻撃し,ヨブの友は,正に気遣う友のように近づきました。
(彼ら自身はよもや,自分がサタンに用いられているなどとは考えもしなかったでしょうが)神の言葉をさえ用いて慰め,励ましたつもりで,結果的には,徹底的にヨブの尊厳を打ち砕きました。


クリスチャンは、「激しく怒ったり」しないように諭されているのは確かです。
「すべての人は,聞くことに速く,語ることに遅く,憤ることに遅くあるべきです。人の憤りは神の義の実践とはならないからです」(ヤコブ 1:19‐20)

確かにこれは、知恵の道です。しかし、物事には例外というものはあるのです。自制を働かせ、怒ることに遅くあるべきですが、「決して憤ってはならない」わけではなりません。むしろ「憤らなければならない」「ここでわたしが憤らなければエホバに申し訳が立たない」時もあるのです。
エホバはヨブに、「あなたの怒りが激しくほとばしり出るように」と語られ、「そうするなら,あなたをほめよう。」と諭されました。
あなたは、義憤をあらわにして誰かに褒められたことがありますか?
聖書を使って、オカドチガイの励ましや慰めを与えて、人を煩わすような人には、あからさまに憤りを表すべきで、その場で、そうした人をなじるのが相応しいという時も場合によってはあるということです。

ですから,最も根本的な霊的な戦いとは,そうしたサタンの影響力にならされてしまうことがないように,自分と人の尊厳と光輝とを守って行くことに他ならないでしょう。

 今日でもサタンは同じように,「わたしたちは神の不興を買っており,わたしたちの努力は何であれ不十分だというような感覚を植え付けようとしてきました。そしてほとんどの場合、そうした働きかけは、外部の人ではなく、仲間のクリスチャンや「しかるべき立場にある人々」からもたらされてきました。
そうしたサタンの働きは巧妙で、単なる外からのささやきではなく、考え方のパターンに影響するような仕方で人の心に蒔かれています。
例えば、そのような人は,贖いの備えなどの話から,どれほど自分が神の目に価値があるかをを示すそうした証拠を学んでもなお,そのような心は執ように、自分自身にこうささやくかもしれません。
『しかし,立派な業や,その特質の点でわたしよりも模範的な人がほかに幾らでもいるではないか。
多くの特権をとらえ、華々しく活躍している彼らの奉仕報告とわたしを比べたら,エホバはきっとがっかりされるに違いない。』
しかし,それは,決してエホバの見方ではないのは言うまでもありません。
どうぞ、より一層、「優越性と気高さで身を美しく装い。尊厳と光輝を身に着け」て下さい。

さて最後に,いかにもサタン的な1つの例: 
「しかしイエスを見ると,霊はすぐにその子供にけいれんを起こさせた。そして,子供は地面に倒れ,泡を吹きながら転げ回るのであった。それでイエスは,「こうした事がいつから起きているのですか」とその父にお尋ねになった。父は言った,「子供のころからずっとです。そして,息子を滅ぼそうとして,その霊は何度となく彼を火の中にも水の中にも投げ込んだものです」(マルコ 9:20-22)

人間をおもちゃのようにもてあそぶ。その体を地に投げつけ汚し,ほくそ笑む。
これがサタンです。
サタンはこれまで,文字通りの災いだけでなく、これよりはるかに大規模に,人々を霊的,精神的なしかたでけいれんを起こさせ,地面に投げつけてきました。
つまり,人間性を、尊厳を、光輝を踏みにじり,人の純粋さや真剣な願いを、裏であざ笑ってきました。

エホバはねたむ神として,今,最高度にねたんでおられます。
神の怒りは目下、最大限に達していることでしょう。
「大いなるバビロン」の「罪は重なり加わって天に達し」ている一番の理由は「イエスの証人たちの血に酔っている」、つまり、クリスチャンを手厳しく扱う者たちに対する大いなる怒りです。

あなたはエホバの激しい憤りを感じ取っておられますか?誰に対してですか。
ご自分に向けられるべき崇拝を横取りにし、エホバの名をかたり、その見せかけの餌で人の住む全地からすなどった純粋な人々を人身御供のように、サタンに捧げ、人の尊厳や光輝を打ち砕き、目まぐるしく変化するいい加減な教理によって、かけがえのない人の人生をもてあそぶ事に何のためらいも良心の痛みも感じない組織に対してです。

今あなたのすべきことは何でしょうか。もう一度繰り返します。

「どうか優越性と気高さで身を美しく装うように。尊厳と光輝を身に着けよ。
あなたの怒りが激しくほとばしり出るように。すべてごう慢な者を見て,これを低くせよ。
すべてごう慢な者を見て,これを卑しめ,邪悪な人々をその場で踏みにじれ。
彼らを共々に塵の中に隠し,彼らの顔を隠れた所につなぎ留めよ。

       
 
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