「臨終間際の後悔」に寄せて

 
   「臨終間際の後悔」に寄せて

興味深いブログを発見しましたのでご紹介します。
"REGRETS OF THE DYING"

このブログの主は ブロニ―・ウェア(Bronnie Ware)という名のオーストラリアの看護師の方で、患者の最後の数週間のケアを担当する緩和ケアに勤務した人です。
彼女はこのブログの中で、死の間際にある人が悟るに至ったことを記録していましたが、そのブログが多くの注目を集めたために、自分が見聞きしたことをまとめて「The Top Five Regrets of the Dying」(死の間際の人が後悔することトップ5)という題名の本を出版しました。

-----------------そのブログからの一部抜粋した拙い和訳です。

長年、私は緩和ケアで働きました。
私の患者は死を迎えるために自宅に戻った人々でした。
それらは極めて特殊な時を共有するものになりました。
私は彼らの人生の最後の3から12週間程の期間を共に過ごしました。

自分の死に直面する場合、人々は非常に成長します。
私は、人間の成長の可能性をみくびるべきでないことを学びました。
いくつかの変化は驚異的でした。
各々の方は予想通りに様々な感情を経験されます。否定、恐れ、怒り、後悔、更なる否定。そして最終的には受け入れる。
全ての患者は臨終の前に、心の平安を見いだします。彼らの誰もが全てそうです。
そうした人々が、後悔や、あるいは別の生き方があったかどうかについて質問された時、共通のテーマが繰り返し示されました。
ここに、最も一般的な5つがあります。

1. 他人が自分に期待する人生ではなく、自分自身に忠実な人生を送る勇気をもっていたなら良かった。

 「これが後悔の中で最もよくあるものです。自分の人生がほぼ終わりに達したことを理解し、澄んだ気持ちになって人生を振り返るとき、いかに多くの夢が実現されなかったかが容易に見て取れるわけです。ほとんどの人は、夢の半分も実現することなく、しかもそれが自分のした(あるいは、しなかった)選択のせいだったことを知りながら死ぬしかありませんでした。健康は自由をもたらしてくれますが、その自由は、ほとんどの人がもう健康にはなりえなくなって初めて理解するものです」。

2. あれほど一所懸命に働かなければよかった。

 「これは、私が看取ったすべての男性患者が口にした後悔です。子供が小さい頃に一緒にいてあげられなかったり、パートナーに対して親密にしてあげられなかったというのです。女性たちもこうした後悔を口にしましたが、ほとんどは古い世代なので、女性の患者の多くは働いて家計を支えていたわけではありませんでしたからね。私が看取った男性は皆、来る日も来る日も仕事だけの生活に自分の人生の多大な部分を費やしたことを深く後悔していました」。

3. 自分の感情を言い表わす勇気を持っていたなら良かった。

 「多くの人が、他人との平穏な毎日を維持するために、自分が感じていることを押し殺していました。その結果、彼らは平凡な生活を甘んじて受け入れ、本当はそうなれる存在になれずじまいで終わりました。多くの人が、その結果苦しみと怒りに苛まれることになり、それに関係する病気を発症することになったのです」。

4. 友人たちと連絡を取りつづけていたならば良かった。

 「多くの人は死ぬ数週間前まで旧友のありがたさを本当は理解していないことがしばしばですし、その友人たちに連絡を取ることが常にできるとは限りませんでした。多くの人は、自分の人生にかかり切りになってしまうので、まばゆい友情を年月とともに忘れてしまうものなのです。友情に対してそれにふさわしい時間と努力を費やさなかったことに多くの人が深い後悔の念をもちます。誰もが死にいくときに友人に会えずに寂しい思いをするのです」。

5. 自分がもっと幸せになってもいいと思えればよかったのに。

 「これは驚くほどよく見受けられる後悔です。多くの人は、幸福が選択肢の一つであることに最後まで気づかなかったのです。彼らは古くからのパターンや慣習で身動きが取れない状態でした。物質的な生活のみならず、自分の感情の中までにも慣れ親しんだ世界のいわゆる「居心地の良さ」があふれていました。変化に対する恐れから、彼らは自他に対して、自分は満ち足りていると言い張っていましたが、内心の深いところでは、今度生まれ変わったならば大いに笑ったり羽目をはずしたりすることを切望していました」。

  あなたの最大の後悔は何でしょうか? そして死ぬ前にこれを成し遂げようとか、これを変えようと思っていることが何かありますか? 
-----------------引用和訳 ここまで

この中で、「幸福が選択肢の一つであることに最後まで気づかなかった」という一文が大変印象的でした。
全体的に共通してるイメージは、自分に対する自分のイニシアチブというか、自己の尊厳を守り損ねたと言う感覚かもしれません。
人間社会の中で、平和を保ち、道理をわきまえているためには、協調と寛容さは確かに必要ですが、そのために翻弄されてしまいがちな人生を送ることになるのはほとんど全ての人に共通した要素と言えます。
そして、本来の自分自身を守るためには「勇気」が必要だと言うことです。
「義を見てせざるは勇なきなり」という言葉がありますが、この義は、人間の義ではなく、本質的な義の事でしょう。
自分の、つまり人間の本質的な尊厳を守ることは、すなわち、自分の存在の原因者である親の尊厳を守ることにもなり、究極的には、生命の源である神の尊厳を尊重することに繋がるものだと考えます。
毅然とした気高さを保つには確かに勇気が必要です。しかし、同時にそれは、人間が幸福感を抱くためにはある程度の「崇高さ」の自認が不可欠である証拠であるとも言えます。

さて、昔から「後悔先に立たず」という言葉がありますが、それは当然と言えば当然で、「先に立ったならそれは後悔ではなく「前悔」と言うべきで、何も始める前からそれを悔やむ事などあろうはずもありません。しかし、「臨終間際」の後がない後悔ではなく、依然これから後があり、何とかすればしようがある辺りでの後悔、言ってみれば途中の後悔である「中悔」によって、物事を悟ることができれば、多少なりとも賢い生き方ができるような気がします。

そこで、こうした不特定多数の人が口を揃えて、人生の最後に述べた言葉には、深く考えさせられるものがあると思います。

さて、聖書は、全ての死者が復活する時についても預言しています。
それらの人は、臨終の間際に、恐らく、先のTOP5のような、後悔を、多かれ少なかれ味わったに違いありません。また、それに先駆けて第一の復活に与る人は、天に於いて、王また祭司として人類を世話すると約束されています。それらの人々も、同様に、死の直前に、やはり様々な後悔があったであろうと思います。
それらを経験した人々が、支配者になり、また近所に住む隣人になる時に、人間の本然的な欲求、必要を十分に知り尽くしていると言う事を考えますと、ここに、「復活」と言う神のご計画に、新たな意味を私としては感じます。
すなわち、「死」を味わった人間の「後悔」に見られる事柄こそが、実に神の人間に対する当初からの願い、目的だったと言う事に、人類全体がようやく理解し気付くようになると言うことなのでしょう。
       
 
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