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マタイ24-25章の一連の話をされたのは、弟子たちからの次の質問に答えるためでした。
「わたしたちにお話しください。そのようなことはいつあるのでしょうか。そして,あなたの臨在と事物の体制の終結のしるしには何がありますか」。」(24:3)
「いつなのか」と「どんなしるしがあるか」という2点です。
改めてよく読んでみますと、実は、近づいている「しるし」と「出来事」についてしか答えておられないことが分かります。
「いつ」については、終始「分からない、知らない」としか言われていません。これはその質問を無視しているというものではなく、「父」以外は自分もみ使いも、誰も知らないことだからと言うことです。ですから「いつ」を云々するのは神の摂理に反するということでしょう。 それで「いつ」ではなく「その代り」とも言うべき言葉が「だから目覚めていなさい」で、これもそのたびに繰り返されています。
「目覚めている」という表現から、時間的な要素に気を配るべきと思いがちですが、そうではないということが分かります。
「いつ」という質問に対しての答えが皆無であることから、イエスのこうした言葉が聞こえてくるように思えます。
『「いつ?」という発想は捨てなさい』『西暦何年に何が起きるか、起きたか、任命されたか」などと考えるべきではないということが分からないのですか』『そうではなく、「目覚めている」とはどういうことなのか、それには具体的にどんなことが関係してくるかということに思いを集中しなさい』。
そして「このゆえに,あなた方も用意のできていることを示しなさい。あなた方の思わぬ時刻に人の子は来るからです。」(24:44)と述べてから、目覚めている」とはどういうことなのかを示すために一連の3つの譬え話を話されます。
マタイ24章の「その日がいつか知らない」という「その日」とは一連の譬えで言えば「主人の帰宅時」つまりキリストの再臨時に他ならないわけですが、「10人乙女」の話から、「その日がいつか知らないのだから目覚めていなさい」と言われている、「その日」に生じることとされている事柄として「乙女が花婿を迎え、婚姻の席に着く」とされています。この婚宴は、「天」で執り行われ、その席も「天」にあります。
「歓び,そして喜びにあふれよう。また,神に栄光をささげよう。子羊の結婚が到来し,その妻は支度を整えたからである」啓示19:7
つまり「忠実で思慮深い奴隷」にキリストの「全ての持ちもの」が委ねられる時、「愚かな処女」が閉め出される時、「よこしまな奴隷」が裁かれて歯ぎしりする時はいつかというと、啓示19章全体を見ると、そのタイミングは「大いなるバビロン」が滅ぼされた後であり、ハルマゲドン開始時であることが分かります。 ものみの塔の主張する1919年などというのは全くのでたらめであることが分かります。
とりわけ、「賢いおとめ」が婚宴の席に着くということは、それらの乙女はその直前、つまりキリスト臨在時に地上に生きている人々であることをしっかりと認識する必要があります。
つまり、それ以前の歴史上のクリスチャンはどれほど「賢く」どれほど「忠実で」どれほど「目覚めていた」としても、目覚めたまま死の眠りについているわけで、「終わりのしるし」として語られたそれらの譬えの成就にあずかることはありません。
ということは、この「5人の乙女」で表されるクリスチャンは全員「復活組」ではなく「Ⅰテサロニケ4:16-17」で示されている「生きたまま天に挙げられる(生継空挙)」人々であり、それは突如眼の前の人間が天に挙げられてゆくのを目撃する人がが全世界にいると言う事象であり、世界中の大人も子供も、知らない、気づかないということなど絶対にあり得ないということです。
解りやすく、もう一度繰り返しますが、終わりの「しるし」はそれと認識し得ない人もいるかも知れませんが、マタイ24章は単にしるしだけでなく、「終わりそのもの」つまり地上での出来事だけでなく、クリスチャンが天に召された後までのことが扱われており、とりわけ[譬え話」は世の終焉前後にフォーカスを合わせたものだということがわかります。
つまり、「忠実で思慮深い奴隷」「10人のおとめ」「タラント」の譬えが現実のものになった時点で、それを知らない、気づかない人は世界中どこにもいないということです。
ものみの塔はこの聖書的事実を前にして、終末の大患難とハルマゲドンと大バビロンの滅び以外は全てすでに成就したという、あまりにも非聖書的な自分たちの教理の由々しさに潔く帽子を脱ぐべきでは無いでしょうか。
マタイ24-25章の一連の話をされたのは、弟子たちからの次の質問に答えるためでした。
「わたしたちにお話しください。そのようなことはいつあるのでしょうか。そして,あなたの臨在と事物の体制の終結のしるしには何がありますか」。」(24:3)
「いつなのか」と「どんなしるしがあるか」という2点です。
改めてよく読んでみますと、実は、近づいている「しるし」と「出来事」についてしか答えておられないことが分かります。
「いつ」については、終始「分からない、知らない」としか言われていません。これはその質問を無視しているというものではなく、「父」以外は自分もみ使いも、誰も知らないことだからと言うことです。ですから「いつ」を云々するのは神の摂理に反するということでしょう。 それで「いつ」ではなく「その代り」とも言うべき言葉が「だから目覚めていなさい」で、これもそのたびに繰り返されています。
「目覚めている」という表現から、時間的な要素に気を配るべきと思いがちですが、そうではないということが分かります。
「いつ」という質問に対しての答えが皆無であることから、イエスのこうした言葉が聞こえてくるように思えます。
『「いつ?」という発想は捨てなさい』『西暦何年に何が起きるか、起きたか、任命されたか」などと考えるべきではないということが分からないのですか』『そうではなく、「目覚めている」とはどういうことなのか、それには具体的にどんなことが関係してくるかということに思いを集中しなさい』。
そして「このゆえに,あなた方も用意のできていることを示しなさい。あなた方の思わぬ時刻に人の子は来るからです。」(24:44)と述べてから、目覚めている」とはどういうことなのかを示すために一連の3つの譬え話を話されます。
マタイ24章の「その日がいつか知らない」という「その日」とは一連の譬えで言えば「主人の帰宅時」つまりキリストの再臨時に他ならないわけですが、「10人乙女」の話から、「その日がいつか知らないのだから目覚めていなさい」と言われている、「その日」に生じることとされている事柄として「乙女が花婿を迎え、婚姻の席に着く」とされています。この婚宴は、「天」で執り行われ、その席も「天」にあります。
「歓び,そして喜びにあふれよう。また,神に栄光をささげよう。子羊の結婚が到来し,その妻は支度を整えたからである」啓示19:7
つまり「忠実で思慮深い奴隷」にキリストの「全ての持ちもの」が委ねられる時、「愚かな処女」が閉め出される時、「よこしまな奴隷」が裁かれて歯ぎしりする時はいつかというと、啓示19章全体を見ると、そのタイミングは「大いなるバビロン」が滅ぼされた後であり、ハルマゲドン開始時であることが分かります。 ものみの塔の主張する1919年などというのは全くのでたらめであることが分かります。
とりわけ、「賢いおとめ」が婚宴の席に着くということは、それらの乙女はその直前、つまりキリスト臨在時に地上に生きている人々であることをしっかりと認識する必要があります。
つまり、それ以前の歴史上のクリスチャンはどれほど「賢く」どれほど「忠実で」どれほど「目覚めていた」としても、目覚めたまま死の眠りについているわけで、「終わりのしるし」として語られたそれらの譬えの成就にあずかることはありません。
ということは、この「5人の乙女」で表されるクリスチャンは全員「復活組」ではなく「Ⅰテサロニケ4:16-17」で示されている「生きたまま天に挙げられる(生継空挙)」人々であり、それは突如眼の前の人間が天に挙げられてゆくのを目撃する人がが全世界にいると言う事象であり、世界中の大人も子供も、知らない、気づかないということなど絶対にあり得ないということです。
解りやすく、もう一度繰り返しますが、終わりの「しるし」はそれと認識し得ない人もいるかも知れませんが、マタイ24章は単にしるしだけでなく、「終わりそのもの」つまり地上での出来事だけでなく、クリスチャンが天に召された後までのことが扱われており、とりわけ[譬え話」は世の終焉前後にフォーカスを合わせたものだということがわかります。
つまり、「忠実で思慮深い奴隷」「10人のおとめ」「タラント」の譬えが現実のものになった時点で、それを知らない、気づかない人は世界中どこにもいないということです。
ものみの塔はこの聖書的事実を前にして、終末の大患難とハルマゲドンと大バビロンの滅び以外は全てすでに成就したという、あまりにも非聖書的な自分たちの教理の由々しさに潔く帽子を脱ぐべきでは無いでしょうか。
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